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はじめに
カトリック教会内外で念祈について語られる際、ほとんどの場合、それは聖人や神秘主義者達の生涯と結びつけて語られる。それは隠遁生活や修道院での生活にふさわしい祈りの方法であり、一般信徒達の日常生活の中で実践されるものではないと考えられがちである。
それがゆえカトリック教会の大部分を占める一般信徒の間では、念祈はほとんど普及していないし、教えられてもいません。その理由の一部はカトリック教会内部での知識不足にあるが、また、教会の多くのが念祈に共感できないことも考えられます。更に率直に言えば、その形式や手法(内容や本質ではなく)が、今日流行の東洋の伝統と類似しているため、宗教的シンクレティズム(混合宗教)と非難されることを恐れているからかもしれません。
そのためこのウェブサイトでは念祈が、より多くのカトリック信者や霊的な探求をしている方、または人生の意味を求めている人々にも知られるよう、微力ながら貢献したいと思っています。この祈りの方法がご自分の精神性に合っているかどうかは、各自が判断して下さい。

なぜこの祈り方なのか?
教会が「存在の周辺部」へ出向くよう呼びかけていることは、容易なことではありません。物理的であれ非物質的であれ、それらは往々にして「境界の場所」であり、その定義上、複雑で紛争のない場所ではありません。異なる、あるいは対立する人々や信念、あるいは私たちを圧倒し、それらを変えたり改善したりする私たちの無力さや小ささを露呈する厳しい現実や苦しみと出会い、共存することは、そこに留まり、福音を宣べ伝え、生きることを困難にし、個人的、霊的に大きな消耗をもたらします。
世界とそのルールや力学、人々や機関の利己心や悲惨さ、ソーシャルメディアや新技術などは、多くの人々に失敗、破壊、攻撃性、絶望の跡を残しています。教会は、傷を癒し、神の希望と愛を伝え、誰も受け入れたがらない人々を受け入れ、付き添おうとしています。しかし、たとえそれが仕事であっても、それは結局、私たちに影響を与えることになります。また、自発的な意志だけでは、そこに長く留まるには不十分です。
したがって、念祈で沈黙と静寂を求めることは世界や日々の困難から逃れようとする試みとして理解されるべきではなく、また、内面や感情的な安らぎの状態を求めるものでもありません。神が私たちに会おうと望まれるときに、私たちが覚醒し注意を払った状態で神に出会えるよう心を整えておくことなのです。なぜなら、イエス様と共にこそ、他の人や自分の人生の厳しい現実に耐え、信仰と希望をもって立ち向かうことができるからです。